大学時代にタイムスリップ

月末の金曜日に早く帰れるように制度化するんだそうです。例の企業の過労死問題があってのことです。具体的には、月末の金曜日に午後15時には仕事を終わらせ、旅行や料理の準備に消費をせよということで、経済産業省が通達するんだそうです。

15時って中途半端な!半ドンという言葉があったんだから半金もありゃあいいじゃん!!

 

ということで先週の土曜日と日曜日に大学の学園祭があったので、出身大学へ。私の通っていた大学は田舎の田舎の僻地の僻地に位置しているので、新幹線を乗り継ぎ乗り継ぎ、着いたのは22時過ぎ。

遠いし、お金はかかるし。でも大学時代はそんなことは日常茶判事で弾丸で実家に帰る友人がたくさんいたものです。

私は今、博士前期課程2年で就職も決まり、落ち着いたのでこのように遠いところでも行けるわけです。また金ならあるわけですし(笑)。同期が私と同じ大学に通っていて(私は地元の大学院に進学したのですけどね)、彼の家に泊まることで宿泊費を浮かすことが重要。

 

翌日は少し早起き(といっても9時に起床)。そして11時に大学に向かう。実は3月の卒業式にも顔を出したのでなつかしみはなかった。だけど、研究室に入ると一気にそのときの感覚が戻ってきた。その分野から離れてもう2年目。そうちょうど2年前に指導教官によその大学院に行くと告げると、そんな前向きに考えてくれなかったな。そりゃそうだよ、入りたいって言って入ったのによそに出ると言うんだ。そうなってしまう。今もそういう大学生が多く、結構揉めているところは揉めているそうだ。だけど当時は、なんか言われるだけで終わった。研究室には装置があり、真空を引いている。その時の音がだいぶとうるさい。だけど、それが懐かしかった。あんな部屋のソファで寝ていたのだ。

昼からは焼き肉。1000円で豚肉1パック、2000円で牛肉(土佐牛)1パック。炭火で焼いて食べるバーベキュースタイル。これがうまいのだ。これを食べにここまできた。

私の後見人2人の弟と後輩を連れてきて一緒に食べた。いろんな話が聞けたのがうれしい。あの時はよかったなんて微塵たりとも思わないが、変わってはいけないことも中にはある。それはまるで自分の核のようなものだ。私の人格形成に少しは糧になったであろうあの町も変わっていなかった。よく行ったパン屋はそのままだった。変わったのはコンビニが増えたくらい。だってやっとセブンイレブンが最近上陸したのだ。

 

大学は必要ないといわれる昨今、地方の片隅に存在する私が通っていた大学はずっと心の中にあり続ける。そしてあり続ける限り、歩みを止めてはいけない。

 

帰り際、4階に行くと、指導教官が部屋に在室していた。同期が会うようにと促したが、とてもじゃないが会いたくない。どうしてかというと自分でもよくわからない。ま、無理して出たからな。

あと、学術誌に自分の名前が載ったから、それで近況を知ればいいだけのこと。

 

帰りにこの曲を聴きながら帰った。

www.youtube.com

頭を使うからお金がたくさんもらえるんだよ~25の男が言った~

教師を目指していたころの私が大学院1年生時、ある友人に言われた言葉である。びっくりした。彼は化粧品会社で設計だか品質管理だか分からないが、開発職に就いた。

「俺が教育実習に行ったころ、今(大学院)よりは楽だった」

これは確かによく分かる。私が通っていた大学院はブラックだということで有名であったから。そしてその後

「頭も神経も使う研究職は儲かる。教員はほぼルーチンだから儲からない」

と彼は言った。

 

もうそこから彼との積極的な交流は辞めた。25も超えて、16歳のハローワークにでも通ったらよろしいのではないだろうか?それくらいの幼稚な仕事観。

 

それからそんな彼の作るであろう化粧品の不買運動をしている。ここでは書かないが大阪に本社がある会社(耳につける装飾品名の会社)だが、絶対買わないことにしている。

 

失礼千万だ。頭にきた院生1年のころだった。

 

「ノーベル賞飽きた」~太田光は正しい~

毎度の流れですね。

日本人がノーベル賞を取得。

「いやー素晴らしい」

からの

「役に立つの?」

からの

「役に立たない」

からの

「理数科教育を推進するべきだ!科研費をもっと充実!」

からの

「そもそも基礎研究は息の長い云々」

 

もういいです。しょーもない。

ここは村上春樹さんにでも締めてもらいましょう。

「今年も無理でした」

教師が生徒に告られたらどうしたらいいのかとその考え方

大学時代の教育関係の授業で書いた資料を公開!!

まず場面設定で劇は進みます。

生徒に告白される→先生困る→「彼女がいるから」と言い、生徒の申し出を断るが一連の劇の流れでした。

1、序章

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このような状況の中、教師は生徒に告白をされる。

そして同僚にそのことを相談するのであるが、そこで教員に何故なったのか問われ、主人公の教師は「お互いに成長できるから」と答える。

一方、生徒はまた違う教師にそのことを相談し、「付き合ったとして、周りの友達はどう思うのか」と問われ、考えを改める。

また最終的に教師は「彼女がいるから」と言い、このことは終結に向かった。

 

2、考え方の補助線

補助線というのは幾何学で用いられるものであるが、具体的に言うとそれまで複雑であったものが補助線を引くことにより、簡単に解決あるいはわかりやすくなるというものである。ここでどうして僕たちは(僕達の班は)、教員が生徒と付き合うのを、高校3年生女子なら法律的に問題がないにもかかわらず、ダメだと思ってしまうのだろうということから考えた。

そこで引くべき補助線が「オオヤケ(公)」と「ワタクシ(私)」というものである。

以下にこの問題を図解して説明する。

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上図を主人公の言葉である「教師になった理由が生徒とお互いに成長できるから」というものを思い出していただきたい。我が班のシナリオでのセリフであるので特異な例だと思われる方は理想とする教員像を思い描いていただきたい。そして問いかけてほしい。

 

「もし自分が主人公なら付き合うことを承諾したとして、理想とする教員像を満たすことができるか?」

 

答えはNoだと思う(私達の班はNoだとした)。なぜなら、クラスでの評価が低下し、教師間の評価が低下、もっと言えば地域の評価が低下するからだと考えたからだ。これが

 

地方公務員法 第33条 職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない。

 

の意味である。特に教員は公務員の中でもその公の要素の数が多いのが特徴であろう。

 

また生徒側の「オオヤケ・ワタクシ」を考えたが、教師についてだけで文面を割ことにしたいので割愛する。

 

我が班が例として挙がったオオヤケ・ワタクシ問題

・警察官が未成年と付き合った場合…No(法というのが公の要素としてあるから)

・消防士が未成年と付き合った場合…?(班の意見がわかれた)

 

3、ネットの意見

県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。県教育局によると、県内の県立高校では、ほかに男女3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席した。 関根郁夫県教育長は11日に開いた県立高校の校長会で「担任がいないことに気付いた新入生や保護者から心配、不安の声が上がった」と、この事実を報告した上で「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促した。 関係者によると、入学式の担任紹介の中で校長が女性教諭の欠席理由を説明。女性教諭は「入学式という大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします」という文章を事前に作成し、当日、別の教諭が生徒らに配ったという。 来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。

 県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。

 

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オオヤケ・ワタクシの考え方の応用として、上記の内容を考えてみよう。

まず、教員である以上、オオヤケの要素は同じ。またワタクシはこちらのほうがわかりやすく、「家庭」であろう。その共通部分で揺れ動いた、具合的には自分の息子の卒業式に出席するのか、それとも学校の入学式を優先するのかで揺れ動いたのがこの教員である。

 

実はネットの意見がわかれたのである。これをどう読み取るか?これを考える一つの補助線を次章に用意した。

 

 

4、自由と合理化と美徳と…。

ワタクシ・オオヤケにこの世間の目として「美徳」を取り上げた。

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3章の問題をどう考えるか?

美徳を一言で言うのは難しいのであるが、簡単にいえばモラルだと思う。自由と合理化とその共通部分であるところで揺れ動いた場合、この美徳というのを自分の中に入れて判断を下すべきだと思う。

この問題では、断り方が美徳の部分であろう。「彼女がいるから」と答えることにより、クラスの目線、世間の目線、教師間での自分etc…をモラルに反せずに守ることができた(と考えられる)。

少し強引であるが、この4章及びこれまでの考察を終えたいと思う。また、著者の願望でもあるのだが、この問題のまた違う補助線のひきかた、考え方を教えていただきたい。

 

 

伝統

御大「君に先天的に備わっている創造性ってのはまず、子供を作ることなんだよ。これは誰でもできる。だけどね、本当の創造であったりクリエイティブってのは、もちろんそこには意識ってのも入るよ、心の在り方だって十分クリエイティブなことだ。モノを作る、新しい概念もそう、それを作るすべは先天的には与えられてなくて、それは一から自分で組み立てていくしかないから自分から接触していくしかない」

私「だけど、自分的なものばかり作るのですがそれは・・・」

御大「わかるよ、非常にわかる。だけどね、その自分的なものって結局誰かの模倣だったりするわけだ。しかも、先人のね。創造っていうのは何かが自分を通して過去から未来に通っていくだけだって感じるんだ。つまり自分がどこにいるかってことを知ることは人間にとって大事なことなんだと思うよ。何かを表現したり、特に科学に多いんだけど発見することだってそう。これもアインシュタインニュートン、マクスウェルがもうその大枠は決めたんだ。つまり展開するだけ。結局は伝統なんだよ。」

私「アインシュタインと聞くと量子力学が思い浮かびますよ。今の今まで原子の解明に一役買ってきた量子力学ですが、もう下火というかなんというか。」御大「ま、今科研費の季節だけど、そのほとんどが化学系だったりするからね。なかなか物理でおまんまが食えない時代だったりするんだ。」私「しかし、マクスウェルによって携帯電話が使えるわけです。マクスウェル方程式から150年たってからでありますが。」御大「そうそう、量子力学ができて100年ってわけだ。でやっとその原子や宇宙の解明ができた。次はそれこそものづくりだね。これがくせもんだよ。なんといってもボーアの相対論の美しい数学がない。工学ってのは数学の伝統にも立っているわけだ。これがないとまず無理だね。そういや君は量子力学やるって?」私「そうです。立ち位置、居場所がなくて困っています。」

御大「ま、それは仕方ないよ。大きなパラダイムシフトに立っているからね。年収350万円で生きていたりできるのは貨幣経済が終わったと思うよ。そんな時代ですらパソコンはみんな持っているし、安倍さんとオバマさんが言った寿司屋も10万円もしないというじゃないか。うまいもんも少し買うものを我慢すれば食える時代。貨幣経済が終わるか否かのパラダイムシフトなわけだ。で、科学だってそう。原子崩壊なんてもう質量保存の法則が成り立たないのと同様に、量子力学が工学に応用されるのも何かが崩壊しないといけないんじゃないのかな?というよりもう崩壊しちゃって、量子力学エンジニアなんてものに伝統がないのが今の状態かもね。」

貨幣経済が終わる?

「難しく考える必要はないよ。君だって損得勘定で生きてないだろ?損しかしないのに動いてしまう。その時点で貨幣経済が終わっているんだよ。ま、ミクロな話ではあるけど。この辺のことを勉強したかったら行動経済学でも読めばいいんじゃないのかな?」

ーそんなことより居場所ですよ!居場所がないから常に孤独なんです!

「みんながそうじゃないのかな。今の人たちは点でしか存在しないようにしか見えて仕方がないけど。なんていうのかな?自分の意志でしか生きられないというか、そんな感じ。昔は不二一体という考えがあったわけだ。たとえばむかしのCMは家庭がターゲットだった。だけど今なんて個人だろ。なんでも自分が背負わないといけない。これはすごく過酷な世の中だよ。不二一体ってのは一時流行し江戸しぐさってやつだ。」

ーその江戸しぐさは苦労して培ってない文化だからすぐ滅びて、点でしか生きてないと?

「そう。ルームシェアってあるだろ?あれって若者の点から線あるいは面で生きていくという表れでしかないと思うんだ。つまりこれ江戸しぐさってわけだ。水面下でよりよく生きようとしているよね。点が線になって面にでもなれば君はだいぶと楽に生きていけると思うんだ。ある高名な指針化の臨床医が総合失調症が治る瞬間ってのは『自分がどこにいるかがわかる時だ』っていうようなことを言っていた。それは具体的な場所じゃなくて精神の居場所なの。いろんな意味での。過去から未来のどこにいるのか。どういうものから生まれて、どこに向かっているか。つまりは曼茶羅のどこに自分はいるのかっていうこと。それを知ることなの。」

お気に入りサイト(順次増強)

原子スペクトル

http://www.nist.gov/pml/data/asd.cfm

パソコン性能サカナ

http://ie.microsoft.com/testdrive/Performance/FishBowl/

埼玉大学の谷先生が提供されている地図作成ソフト「MANDARA」

http://ktgis.net/mandara/

放送大学ラジオ番組表

http://www.ouj.ac.jp/hp/bangumi2/bangumi_radio.php

http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/index.htm

イオン化エネルギー算出

http://www.dreebit.com/en/ion-beam-technology/scientific-service/ionisation-energies.html

分子のおもちゃ箱

http://mike1336.web.fc2.com/

フリー素材「ひばな」

http://hibana.rgr.jp/

カーネル大学図書館(論文検索用)

http://arxiv.org/

検索サイト

http://www.wolframalpha.com/

dig info

http://www.diginfo.tv/

MIT corseware

http://ocw.mit.edu/courses/audio-video-courses/

米国材料学会

http://www.mrs.org/home/

キャリア教育のカリキュラムをめぐる今日的動向に関する考察

大学の時のレポート第1弾!!

 

 

本レポートは、キャリア教育が求められる背景および動向、そしてその意義と課題について述べたものである。まず初めに、キャリア教育がなぜ求められるようになったのか、その背景を述べたいと思う。

 『キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書(平成16年1月公表)』

によると、5つの理由が挙げられている。以下、抜粋する。

①少子高齢社会の到来、産業・経済の構造的変化や雇用の多様化・流動化、②就職・就業をめぐる環境の変化、③若者の勤労観、職業観や社会人・職業人としての基礎的・基本的な資質をめぐる課題、④精神的・社会的自立が遅れ、人間関係をうまく築くことができない、自分で意思決定ができない、自己肯定感を持てない、将来希望を持つことができない、進路を選ぼうとしないなど、子どもたちの生活・意識の変容、⑤高学歴社会におけるモラトリアム傾向が強くなり、進学も就職もしなかったり、進路意識や目的意識が希薄なまま「とりあえず」進学したりする若者の増加。

 さらに国立教育政策研究所によると、「特に産業や経済の変容は雇用形態の多様化・流動化にも直結し、子供たちが将来に不安を感じ、学校での学習に自分の将来との関係で意義が見いだせずに、学習意欲が低下し、学習習慣が確立していないといった状況も指摘されています。」と述べている。

 次に動向について述べる。文部科学省では、「キャリア教育の基本方向と推進方策」としてまとめられていたので、それをもとに述べたいと思う。

 まず基本方向として、『「働くこと」への関心・意欲の高揚と学習意欲の向上』、『一人一人のキャリア発達への支援』、『社会人・職業人としての資質・能力を高める指導の充実』、『自立意識の涵養と豊かな人間性の育成』が挙げられていた。

 次にキャリア教育推進のための方策について述べる。これに関しては5つ、挙げられていた。以下に抜粋していく。

『教育課程への位置づけとその工夫』、『各発達段階に応じた「能力・態度」の育成を軸とした学習プログラムの開発』、『体験活動等の活用(職場体験、インターンシップ、ボランティア活動、地域の職業調べ、幼小中高大等の多様な学校間連携、上級学校調べ等)』、『社会や経済の仕組みについての現実的理解の促進等』、『多様で幅広い他者との人間関係の構築』が挙げられていた。

ちなみに国としても報告書を公表している。平成14年11月に公表された『児童生徒の職業観・勤労観を育む教育の推進について(調査研究報告書)』などがある。

 このように小・中・高と一貫した体系的な学習プログラムにしようとしたり、職業観・勤労観の育成により若年性雇用問題への解決への糸口にしようとしているのもうかがえることも可能である。

 そもそもキャリア教育とはなんだろうか。ここでは、意義について述べたいと思う。文部科学省によると、『キャリア教育は、一人一人のキャリア発達や個としての自立を促す観点から、従来の教育の在り方を幅広く見直し、改革していくための理念と方向性を示すもの』であり、また『キャリア教育は、キャリアが子供たちの発達段階やその発達課題の達成と深くかかわりながら段階を追って発達していくことを踏まえ、子どもたちの全人的な成長・発達を促す視点に立った取り組みを積極的に進めること』と記している。

 こうした文部科学省や国の動向、キャリア教育の意義を基に各学校はキャリア教育を行うのである。ここでは、文部科学省および国立教育政策研究所の資料を基にして、先述の動向に含まれるかもしれないが、各学校の現状について述べ、そこからうかがえる課題についてまとめたいと思う。

 まず、小学校についてであるが、『キャリア教育の意義や必要性あるいは指導内容・方法の理解について教職員間に差があるなど、教職員のキャリア教育に関する理解が必ずしも一致しない』、『指導内容・方法が未開発で、夢や希望の育成といった指導に偏っている』、『学年や学校全体で取り組む組織・体制が未整備で、学級担任個々の取組になっている』ことが挙げられていた。次に中学校だが、『キャリア教育と進路指導との連関が図られておらず、本来の理念に反して出口指導に偏る傾向がある』、『多くの学校が職場体験に取り組んでいるが、その事前・事後の指導が不十分であり、体験活動に終始する傾向がある』、『学年ごとの優れた活動や指導方法等が学校全体の取組として、継承、改善されていない』という点があった。最後に高校についてである。『キャリア教育の意義や必要性の理解が不十分で、従前からの進学指導や就職指導に終始する学校が少なくない』、『キャリア教育の全体計画や各学年の年間指導計画などが立てられていない』、『ホームルーム活動等における指導内容・方法の開発が十分に行われていない』ことが挙げられる。

 こうしたことをまとめると課題が見えてくる。国立教育政策研究所によると、3つの課題が挙げられている。まず第一に、『教職員間の意識にばらつきがある』という点だ。すなわち『キャリア教育の意義や必要性などが十分に理解されていない』のである。そして第二に、『指導計画を作成している学校が少ない』ということだ。たとえば、キャリア教育の目標や内容が確立されていないのである。最後に、『推進組織・体制の構築が進んでいない』という点である。いわば、『校内連携、学校主観および家庭・地域との連携が不十分』なのである。

 これらの問題点を解決するためには学校内外の組織、体制づくりが必要であると文部科学省は説明している。具体的には、全教員がキャリア教育の本質的理解を共有したりキャリア教育を行うための研修を行うことや、保護者や地域、企業および関係行政機関等での協力などをする必要がある。

 これより、キャリア教育が求められる背景や動向、そしてその意義及び課題をふまえたうえで自分なりの意見を述べたいと思う。私の意見としては主に2つに大別される

 まず第一として、問題点として学校現場が何をしたらよいのか分からず混乱しているということだ。私が考えるに、その原因はキャリア教育の達成目標が不明瞭だということが挙げられる。すなわち、一体何をもって基礎的・汎用的能力を身に付けたといえるのか分からないということである。基礎的・汎用的能力は4つに大別され、それは「人間関係形成・社会形成能力」、「自己理解・自己管理能力」、「課題対応能力」、「キャリアプランニング能力」である。ちなみに、いわゆるコミュ力、コミュニケーション能力の事だが、それは「人間関係形成・社会形成能力」に含まれる。

 このようにキャリア教育を通じて培う基礎的・汎用的能力を見てきたが、全てに言えることは定義が不明確である。不明確だからこそ、教員が考え、各学校で特色ある体系的なキャリア教育ができると思うのだが、そのような定義が不明確なものを学校現場で「教育」として行うことに私は疑問を感じずにはいられない。例えば、教科教育はテストというものがあり、客観的に児童の理解力を測ることができる。しかし、基礎的・汎用的能力はそれが出来ないし、ある教員が児童に対し基礎的・汎用的能力が十分身についたと評価しても、また違う教師は反対の評価をするかもしれない。つまり、ここで私が言いたいことは、定義が不明確なゆえに学校現場が何をしたらよいのか分からず、混乱に陥っているということである。

 しかし、キャリア教育の理念と思われる定義には素晴らしいものがある。「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書(平成16年1月公表)」によると『「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し、それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育」ととらえ、端的には、「児童生徒一人一人の勤労観、職業観を育てる教育」とする』と記している。

 私が思うに、若年性雇用問題はこの「働く意欲や態度、勤労観、職業観」が身についていないことに本質的な問題がある。なぜなら、仕事にやりがいがあれば続けて行こうと思えるからだ。だからこそ、小学校からキャリア教育を行い、これらを身に付ける必要性があるのだ。このためにはやはり地域の事業所等の協力が必要だ。

 そこで、第二として私が挙げるのは、現状のところでも触れていたことだが、地域・保護者の連携が不十分だということである。国立教育政策研究所によると、企業が教育支援活動を実施していない理由として、「学校側からの支援依頼がない」、「情報が不足、やり方がわからない」という回答が多く挙げられていた。

 そのためには、本旨にそぐわない内容となる恐れがあるのであまり述べないが、「開かれた学校」にする必要があるだろう。

 ここまで指導する側、教員側について述べたが、やはり大事なのは児童である。よく言われているのが児童の学習意欲低下である。確かに私も学校の勉強に意欲が見出せなかったものである。何故なら、周りの大人は数学における三角形の合同の証明を使わずとも日々の仕事を行っているからだ。従って、今やっている勉強に意味がないと思っても仕方がないと考えてしまいがちだ。しかし、三角形の合同の証明は論理的思考力を培うのに役立ったと今になって私は考える。

 キャリア教育は社会に出ることを意識し過ぎているかのように見える。現に、私は職場体験を中学校で行った。しかし、最も大事にすべきなのは教科学習を通じてのキャリア発達なのではないか。本当に社会に出ることでしか基礎的・汎用的能力を培えることができないのか。そのようなことはないはずで、日々の教科学習で十分だと私は思える。例えば、授業で自分の意見をみんなの前で発表する機会を設けたり、少し積極性のない児童には作文を書かせるのもよいだろう。その際には、目標として分かりやすい文章にすることを意識させればよい。

 基礎的・汎用的能力は教科学習に隠れているはずである。教員はこれを探し出して、その培うべき能力を意識して授業づくり、教材作り、またはできない児童のための補習も行うべきである。そうすれば、児童らが陥りやすいと思われる「今やっている勉強の意味がない」という思考になりにくく、むしろ自身の教化学習の意義を見出し、積極的に励むはずであろう。