【原子とは何か?】哲学者による存在論から中学理科原子を考える

我が僻地にも、コロナウイルスの猛威が近づいてきて、先週から休業となった。これで私も晴れて濃厚接触者となった。ああ、これほどまでに注意深く感染予防をしていたのに、ワクチンも3回打ったのに、春休みの予定がパアである。

 

そんなこんなでやっと積読本を読むことができた。それは、

「飲茶著 史上最強の哲学入門」

である。以前、岡田斗司夫が話していてかれこれ10か月くらい前に買ったけな?

さてこの本の中では、「存在論」という章がある。何をもってその物質が「存在」しているのかというのを考える。ここで、表題にもつながる話を思いついたので書き記したいと思う。

 

以前この原子の授業をするのに、仮設実験授業という方法を参考にしたことがある。まず、問いから始まる。

「このチョークをバラバラに、もっとバラバラにしていくとどうなるでしょうか?」

別段チョークにこだわる必要はなく、リンゴでもなんでもいい。生徒らは「見えなくなる」とか「小さな粒々になる」とか答えるだろう。で、原子の登場だ。そこからは指導書にもあるように指導していく。原子について、分子について。(共有結合について。ここまでやると高校内容だけど、私はします。)

 

この本の言葉を借りれば、万物流転と万物不変。チョークは小さくなるか、見えなくなる、あるいは水になるか。

紀元前の540年頃から480年頃にいたヘラクレイトスは存在は変化すると唱えた。またこの同時代にパルメニデスは存在は不変であると唱えた。現代の我々からしてみたら、存在は変化するなんてありえない。チョークが水になるなんてありえないというわけである。しかし、リンゴだってバナナだって、放置しているとやがては干からびて、みずみずしさがなくなる。このようなことを考えると、物質が存在し続けるとやがては水に変化するかもしれない。だって、そのころ、顕微鏡なんてなかったのだから。

 

この時代に存在は変化しないなんてことを見いだした哲学者のすごさたるや。

 

さて、小さな哲学者、中学生に存在は変化しないをどう教えるか。しかし、もう感づいているはずである。チョークを細かくしていっても小さな粒子になると!

これは、「存在するものは存在するし、存在しないものは存在しない」というごく当たり前のことを言っている。言い換えれば、「『無』から『有』は生じないし、『有』が『無』にはならない」ということだ!

 

これを最初から中学生は知っている。当たり前だが知っているのだ。紀元前の哲学者が考えに考えたことを、いとも簡単に知っている。ああ、教師という仕事は、「教えない」に尽きる。