とある物理教師が生物を教えることになった

久しぶりに日記を書こうと思う。どうして筆を走らせるかというと、昨年度より仕事を減らした故。昨年度はしんどかった。担任業、入試、20コマの授業といい、また製菓衛生士関係の先生との連携など、いろいろあった1年間だった。担任もおろされたりしたがそれは別の話になる。

 

大学院時代に生物の研究をしていたこともあり、別段教えることに苦はないのだが、いかんせん、受験経験がない。ゆゆしき事態と相成った。センター試験から私学の看護系まで学びなおさないといけない。

 

助教授にいわれたことを思い出す。

「生物学は現象論」

 

生物学は図が多く、板書が大変である。ただでさえ、図を描くのが下手な私にとって嫌な授業の1つになった。生物学は現象論とはこの意味であったのかと、修了後2年後に思い知らされた。

 

私にとって、現象論はこういいかえられる。反機能論。機能論とはすべてfunction(機能・関数)で表されるという、あくまで理論だ。物理学はそれを信じて学問を形作っている。しかし、生物学はどうであろうか?必ずしも、生物の生態現象を関数で表されるかというとそうではない。

 

西洋思想に毒された、現代医学の失敗はそこにあるのではなかろうか?イザべラ・バードの日本紀行に代表されるように、西洋思想はとかく機能を重んじる。我々の生体反応は果たして1対1の対応関係になっているのだろうか?

生物学は現象論である。このような枠組みの中で、前途有望な高校生諸君らに何を私は教えることができるのだろうか。西洋医学東洋医学の違いに代表されるように、医学はもはや宗教のにおいまで感じさせる。

 

かの有名な物理学者、シュレーディンガーは細胞を見てこういった。

「生物は負のエントロピーを食らうものだ」

前述した、私の杞憂にも似た、焦燥感を一気に解決してくれる。細胞の特徴の一つに代謝というのがある。彼はこの働きをみていったのだろう。

 

生物学は現象論であるが、それを美しく、そしてほんのりと悲壮感をも感じさせて表現する物理学は、我々の生活を残酷に表現するために生まれたのかもしれない。