人は人の生死に関してさも無力なのか

「やっぱり無理だった・・・。」

 

大学時代の友人が放った言葉が胸に突き刺さる。彼は私が大学4回生の時、うつ病で大学を休みがちになり、その結果かどうか就職も決まらず、留年し今年の3月に卒業した。しかし、彼の場合、うつ病と言っても躁鬱の気があるので、見た感じでは「明日にでも死のうか」なんて思うわけがないし、ましてや家から全く出ないなんて微塵もない。

 

だけど、そんな人に限って、である。今年の7月くらいに精神科医から注意欠陥障害、いわゆるPTSDと判断された。

 

ことの発端は、仕事が人よりもできなかったことにある。どうしても人よりうっかりミスが多い。不思議に思った彼は医師に相談をし、今の状況である。

そんな彼に対して僕は「仕事の業務なんて、慣れがほとんどだよ」や「おいおいとやればいいんじゃない?」とSNSで励ましのリプを飛ばした。だけどである。

 

「やっぱり無理だった・・・。」の一言。

 

ああ、どうして人は「人は人でしか変われない」ということを知りつつも、さも無力なのだろう。ましてや、人の生死に関して。

 

「人という字は支えあって・・・」なんていう手垢のついた言葉があるが、その支えが重みとなることも忘れてはいけない。僕は彼の重荷になっていたのだろうか?こんなことなら、もっと一緒にいればよかった。こんなことなら、あんな言葉は書けなかっただろう。

 

ま、仕方ない。考えたって仕方がない。人は自分でしか生きていけないのだから。つらつら思ってみると人が死ぬのは簡単で、ご飯を食べなきゃ死ぬのである。ただそれだけ。たまたまご飯がおいしかったり、たまたまお金があって、たまたま近くにコンビニがあるから、ご飯を食べて生きるのだ。「死にたい」なんて言っても、おなかはすくし、目の前のご飯がこれまたおいしいし、これでは死に遠のくばかりだ。

 

三島由紀夫が自殺したのだって、ご飯がまずかったに違いない。毎日おいしいご飯を食べ続けてはいたが、思うことがあってある日突然ご飯がまずく感じたのだ。漱石の「こころ」に出てくる先生だって、大恋愛のうちに友から女を奪ったが、自責の念が募り募ってご飯がまずくなったのだ。そしてご飯を食べないうちに脳内のシグナル伝達がおかしくなり、自殺したんだ、きっと。

 

結局、人の生死ってご飯が握っている。そして僕は深夜の2時にご飯を食べる。だって、僕もおなかがすいたし、財布を見たら1000円はあるし、ちょっと歩いたらコンビニがあるからだ。